おいしいご飯を食べて幸せ。
お風呂に入って気持ちいい。
私達は単純な「快」によって幸せを感じます。
一方で、
子供が描いてくれた似顔絵。
誕生日に恋人が祝ってくれたプレゼント。
限定品であるグッズ。
その物自体ではなく、その物の背景から幸せを感じることがあります。
同じ外食でも、1人で食べるより好きな人と食べると楽しいです。
たとえ食べる物自体が同じでも。
5歳の子供が描いてくれた自分の似顔絵。
技術的に上手とは言い難いですが、親にとっては大切な宝物です。
このように、私達はその物・その行為自体ではなく、それらの背景にある「何か」に思いを持ちます。
その物・行為自体ではなく、その背景に価値をおく心理的な働きを本質主義と言います。
本質主義は私達が幸せを感じる上でなくてはならない感覚です。
ではこの本質主義、何歳頃から芽生えるのでしょう?
この話題を考える前提として、もう少し本質主義について考えたいと思います。
本質主義とは先に述べた通り、その物・行為自体ではないその背景に価値をおくことです。
カテゴリーという概念も、本質主義の一種と考えることができます。
例えばメロンは野菜です。
メロンは果物と思っていた人も少なくないでしょう。
けれど「果物は木になる。野菜は草からなる」という定義を聞くとすっきり理解できる人もいるでしょう。
メロンを果物と思っていたときも野菜と理解しなおしたときも、メロン自体の見た目は変わっていません。けれど私達は理解した途端にその物の背景を違った形で理解できます。
これはメロンを見た目ではなく背景で理解できるから。本質主義を私達が持っているからです。
本質主義とカテゴリーについての話をしましたが、
「本質主義 = カテゴリー概念」というわけではありません。
例えばスーパーに陳列されているメロンのうち、今日は右が果物で左が野菜と感じる。次の日は逆に。ということはないでしょう。
カテゴリーは一旦理解すると新しい知識が入らない限り不変的です。
一方で、日々変化する本質主義というのもあります。
わかりやすい例が、「有名人と握手をした」。
大ファンの有名人と握手をしたあと、手を洗いたくないと感じる人がいます。
ど頭で考えれば、握手をしようがしまいが、手を洗おうが洗わまいがその人の手はその人の手でしかないことはわかります。
けれど感覚として、手を洗うと有名人と握手をしたその背景が「減ってしまう」気がする。
このように、常に変化する本質主義も人は持ち合わせています。
さて、本題に戻りましょう。
人は何歳頃から本質主義が芽生えるとされているのでしょう?
実は本質主義とは人から教えられたりして身に着く能力ではなく、人間に本来備わっているとされる能力の類いです。
そのためかなり早期から自然に人に芽生えます。
しかしながら、
本質主義の言動を親や第三者が顕著に観測できるのは、おおむね3歳頃です。
3歳頃というのは、様々な抽象的な感覚が芽生え始める時期です。
「りんご」は「果物」なのか「野菜」なのか。
「猫」は「動物」なのか「機械」なのか。
カテゴリーの理解が始まるのは3歳頃からです。
先ほどの本質主義の説明に当てはまりますね。
また、抽象的な嫌悪感が芽生えるのも3歳前後です。
痛い・不快だといった感覚は具体的な嫌悪感です。
では抽象的な嫌悪感とはなんでしょう?
例えばあなたが喫茶店でコーヒーを飲みます。1口飲んで「おいしいなあ」と素直に感じます。
その後、店員さんが来て、「すみません、実はそれ、私の唾が間違って入ってしまったんです」と言われました。
もう2口目は飲む気になりませんね。1口目も2口目も、コーヒーの味自体は変わらないはずなのですが。
こういったものが抽象的な嫌悪感です。
例えば3,4歳くらいの子供にジュースを出して、「ごめんね、ちょっとこれうんち入っているんだ」と嘘を言ってみましょう。
冗談ではなく、子供が本気で信じれば、子供はそのジュースを飲むことはないでしょう。
この抽象的な嫌悪感も、本質主義に関わる心の働きのひとつです。
本質主義があることで、私達は即物的ではない深みのある人生や幸せを感じることができます。
それは物や行為の背景に着目できる力でもあります。
つまり思い出から幸せを感じる力でもあります。
本質主義が強すぎると物事の偏見や過度のこだわりにつながりますが、程よい本質主義は人を幸せにします。
そんな本質主義がわかりやすく見られるのは3歳頃から。
わが子と幸せの共有の仕方の幅が広がる時期です。
その他の記事
【Q&A】子供が左右をわかるのは何歳くらいですか?